2025年の夏に、1995年の風が吹いた
1995年からコールドスリープされ、2025年に目を覚ました女子高生・今日子。彼女と、養い先の双子(明日子・日々人)との束の間の交流を描いた一穂ミチさんの青春小説『今日の日はさようなら』を読了しました。

※本記事はネタバレを含みます。
1995年といえば、私はちょうど中学生。当時の世相や流行をリアルタイムで過ごした世代です。
読み進めるうちに、作品に漂う「あの頃の空気感」と2025年という近未来の対比にぐいぐい引き込まれ、「これは絶対に夏に読むべき本だ」と確信しました。
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ブラウン管の走査線と、90年代の泥臭い熱量
作中で特に懐かしさが込み上げたのが、今日子と日々人がテレビゲームの『ストリートファイター』(らしきゲーム)で遊ぶシーンです。
画面には、今の液晶や有機ELにはない「走査線」がうっすらと走っている。コントローラーを握る手に力が入る、あの独特の熱気。1995年という時代は、どこか泥臭くて、アナログで、だからこそ人間同士のディスタンスが圧倒的に近かったのだと改めて思い出されました。
一方で、描かれる2025年の世界。
SNSでの交流に象徴されるように、システムとしては非常にスマートで洗練されています。しかし同時に、どこか「人間味が薄れてしまったような寂しさ」も漂っている。
デザイナーとして視覚的な世界観を想像したとき、1995年は「高解像度ではないけれど体温のある原色の世界」、2025年は「ノイズのない清涼で透明な世界」としてくっきりとコントラストを描いて頭に浮かびました。この2つの時代が交差する違和感と心地よさが、物語の大きな魅力になっています。
「怖い怖い怖い怖い」——溢れ出した生への執着
物語のクライマックス、再び冷凍保存される今日子と双子の別れのシーンは、言葉を失うほどの切なさでした。
再び眠りにつく直前、今日子の意識が流れ込んでくる描写があります。
そこで発せられる「怖い怖い怖い怖い」という叫び。
それまで健気に、そして逞しく2025年になじもうとしていた彼女の本音、生への強い執着、そして未知の闇へ戻ることへの恐怖が津波のように押し寄せてきて、ゾッとするような悲壮感に包まれました。
90年代の「泥臭い生命力」を持って現代にやってきた彼女が放つその叫びは、効率化されスマートになった世界の中に、強烈な「人間の生」を焼き付けるかのようです。
夏の終わり、二度と戻らない時間を抱きしめる
『今日の日はさようなら』は、単なるSFや甘酸っぱい青春小説ではありません。
「二度と戻らない時間」と「過ぎ去った時代への愛おしさ」を、1995年と2025年という30年の隔たりを通して鮮烈に突きつけてくる作品です。
夏という季節は、眩しい光と同時に、どこか「終わりゆく寂しさ」を連れてきます。だからこそ、この本は夏の匂いがするうちに読むのが一番心に響くのだと思います。
あの頃ブラウン管の前でゲームに熱中していた人にも、スマートな現代にどこか物足りなさを感じている人にも、ぜひ手にとってほしい一冊です。


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